故宮澤秀巖先生が遺したお弟子様への師事語録の一部。
美術品、芸術品の定義。書の次元の完成。現代日本において失われた教養への警鐘など、
秀巖先生の書に対する探究・究明の姿勢が窺えます。
中国に於いて創始された四千年に亘る書の歴史変遷を通し見るなれば、黄河流域の書、長江流域の書の発展過程等中に見られる天変地変、人々の生活の変化の姿、或いは其処に育くみし人として持たねばならぬ即ち基とせねばならぬ情感等の進展が一目瞭然で有る。日本の文化に於いても、此の感化大なるものが有る。
又、五百年にもなんなんとする歴史を持つ日本の華道、茶道等からも「一」なる界を知る事が出来る。書は絵文字に始まり、象形、指事、形声、会意、仮借、転注の六書と進展し、言語を伝えむとする実用の書から美の界に迄進展する。之蒼頡のお蔭甚大なるものとせねばなるまい。更に之を進めて芸術の界に迄高めさす芸術の界は研ぎ済まされし我捨無我を以て統一せる精神を基として完成に導くもので有る。
六書上に於ける単なる文字構成に就いて見ても、冠と沓、偏と旁、分間布白等々、其処には無駄を省き、和の界を無視しては、何ものも成り立たない事が知られる。華道に於いては植物の出生を通して自然の生業と尊さを知る。茶道に於いては、主客の間に寂を主体として「一」への回転の作法の中に和を求む。
此の尊き文化を持つ国人で有り乍ら、今世紀に於ける現実社会の実態は、眼前の欲望のみに生きる自己虫族の争いの界で有る。すべての争いは自己を中心とせる我欲に発す。物理化学の進展は、人類の幸福を求めむとする為の本来の願で有る可きものを、自己虫の為政者達の欲望に悪用されて弱者は苦の界に落し入れられるのが現実。正しき学を基に、一人々々が崇高な聖なる教養の有る人間に成らむと願い、一歩を踏み出せば、千歩も万歩も歩める筈。自己に果せられし義務と責任を取る事を嫌い、権利のみを主張し、犬猫よりも下等な野鼠にも等しい者が人権と言って主張し称える。人間としての資格を完く失って了いし者に対しても弁護する者が居る。之が日本の法律で有り弁護士の役目で有る。之が自己虫族の思想で有り、常識としての社会形成で有る。自己虫族には義理も人情も別世界のものと解さるる。
道義地に落つ敗戦后の日本の社会の実態は余りにも悲しき哉の一語に尽きる。先人の創始せる文化、書華茶道の真髄をもっと学ぶ。之は教養を身に付ける手段の一端には成るが、書き方やお習字程度、或いは生け花程度の次元の低き界で有ってはならない。飽く迄高度なる次元に立脚し、哲悟の境地に至る業行の究明で有らねばならない。
文学の界に於いても、素朴なる万葉を始めとして美しき古今、寂の俳譜、正しき日本語(余りにも日本人は日本語に暗い)等々、学ぶ可きもの多々有る筈。自己虫族は深さ有る美しき日本文化を否定し、世を滅亡の地に導かむとして居る。物質文明のみを追い求めず、人としての素心に帰る事を第一義とせねばならない。