宮澤秀巖

語録集「泉と清水」

語録集

故宮澤秀巖先生が遺したお弟子様への師事語録の一部。
美術品、芸術品の定義。書の次元の完成。現代日本において失われた教養への警鐘など、
秀巖先生の書に対する探究・究明の姿勢が窺えます。

「泉と清水」

深山の水源に辿り着き泉を口にせし時、其の美味格別。誰もが此の美味一生脳裡からは離るるまい。深山の岩間から湧き出づる泉には魚は棲まない。呑んで喜ぶのは人間だけで有る。泉には食する物が無い。故に魚は棲まない。泉に近い流れの清水に棲むのは岩魚だけで有る。

他の魚は普通の清水の流れる川に棲む。食する物が多いからで有る。何時ぞやテレビ番組で死ぬ時、何を食べて死んで行きたいかと論じ合って居た。一人は秋刀魚を足腹食べて死にたいと言う。相手の男の言葉は聞き落とした。彼等は死の境地を味わった事が無いから、こんな会話をして居るので有る。死の境地に至った時、欲しいものは只水だけで有る。之は私の経験上。

又有る男が、良い書を書きたいからと言って、でもお金がもったいない二級酒にしておこうと言って二級酒で墨を磨って見た。書けない。一級酒に替えて見た。書けない。張り込んで特級酒にした。書けない。結極水が一番良かったと…。墨を磨るにはカルキの少ない水が良いので有る。お茶はミネラルの多いものが良く、鉄分多きは最悪。泉だからと言って鉄分の多き水を呑めば下痢をする。ミネラル多き深山の岩間から湧き出づる水は芸術品の段階。綺麗な川の水は美術品の段階。泥水は書き方、お習字の段階。此のお習字と言うのは、一般世間の認識の段階の言葉を言う。本当のお習字の段階とは清水の段階で有らねばならないので有るが、現在の日本人の知識では其の区別を知らない。

水清ければ魚棲まずの格言だか諺だかの古語が有る。道求せず足を運ばざる者には、深山の泉が解らない。汚れた川の水しか知らない。岩魚の棲む山奥の水さえ解らない。芸術品は売れずに残る。美術品迄は売れるもの…。川魚は人が喜び食するのと同じ。只泥中の泥鰌は人が珍味とする例外も有る。教育ママが家の子もお習字習いに行き始めたのよ…。の認識が成り立つ。学歴有れど学力と常識が無いのが現在の日本人の姿で有る。韓国の田舎には今だに儒教の思想が根強く残って居て、長老を敬し、一家和合の一団を形成し、作法を重んじて居る。日本では敗戦后、敬老の日を定めた。成人式も各所で其れそれトラブルを起こし乍ら行って居る。而し敬老とは形だけのもの。言葉だけのもの。二十で成人式を済ませしに、三十過ぎてもまだ幼児発音と幼児語が消えず、五十にして始めて一人前の大人と成る。親の脛を齧って机上学だけは一応済ませしも真の成人者たらむ者は稀で有る。書の界の識に就いて眺めても、戦前迄は道の言を用ひしに現在、文部省では、書写教育と言い、世の人々は、お習字と言う。道は跡絶えて自己虫族の広場だけが残った。無分別は、すべてを破壊する。本当の道たる意義を知らねばならない。泉を知って川を識る。泉は清く尊き天の恵み。流るる川のみに目を止めず、幽玄の界、仙山の水源、其処に湧き出つる泉を知る。求道なくんば天は救はず。

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