宮澤秀巖

特別展示「師を語る」

師を語る

故宮澤秀巖先生が設立した萠翠会。

今現在所属する直接のお弟子様から、宮澤秀巖先生はどのような人物であったかを語って頂きました。

萠翠会理事長村井翠洸

師事させて頂いたきっかけはたまたまなんです。
私は幼少の頃から書が好きで独学で勉強していたんですが、独学にも限界はあるだろうと考えていて。会社の帰り道に書道教室の看板があってそれが秀巖先生の教室だった。看板自体は秀巖先生の作品でもなんでもなく普通のもので、本当にたまたまだったんです。これは前原君(萠翠会副理事長 前原氏)の時と一緒かな。

秀巖先生の教え方は普通のそれとは違いました。
筆の寝てる立てるは云うけども書き方の指導はせず、礼儀作法に厳しくて、言葉一つにしてもやかましい。
書に入る前の段階できちんとしなさい、と始終口にされていました。
心構えを日常的に持つよう指導されましたね。
そういう意味では私にとって「書」だけの先生とは違います。

今は私が後を引継いで、秀巖先生に指導して頂いたことを思い出しながら生徒に教えています。
非常に忙しいが毎日の楽しみでもあります。


萠翠会副理事長前原秀翠

秀巌先生に師事させて頂いたのは二十歳の時なのでだいたい50年前。
きっかけはちょうど会社帰りの四条通りにある看板を見て訪ねて行きました。
秀巖先生との付き合いは長いけれど、私自身どれだけ勉強したかというとさっぱりですわ。

秀巖先生は一徹な性格でね。なかなか考えを譲らない。
私も頑固で自分の考えをはっきり持っていた方だから衝突もあったんですよ。
秀巖先生の言いたいことは頭の中では分かっていたけれど、こっちも一度言い出したことは引込められなくて。
結局どっちも譲らない。
ただ、性格が似ているからでしょうか。先生の考えはよく理解できてね。だからか結局最後まで師事させて頂きました。

書に関しては実に正統派な方でね。所謂横道を嫌っていた所も私自身すごく理解できるところです。先生は最期まで古筆をやっていましたよ。


萠翠会副理事長中島秀嶽

私は今まで書の指導を受けていて、秀巖先生は三人目の先生になります。
勤めていた会社の回覧で書道教室の案内があってそれで通うことにしました。書は好きでしたから。

秀巖先生が仰られてたのは習字をしているのとは違うということ。
書道の道(どう)は道(みち)。華道、柔道、茶道、書道と全てに道がつく。
そこにはきちんとした礼儀がある。
挨拶の仕方、靴の脱ぎ方、揃え方細かく全部指導された。先生の前では正座をして礼をする。帰るときも同じ。

秀巖先生が華を教えていた時に、女の方がコートを着て花を見せに来た時がありまして。
その時も「きちんとコートを脱ぎなさい。先生に対してきちんと礼をしなさい」としっかりと教えていた。
他の先生は字のことは教えてくれましたが、こういう礼儀作法についての教えはしませんでしたね。

秀巖先生は道を教えているんだと思います。


萠翠会事務局長上田秀曠

中学校の教師になった時習字の授業を受け持つことになったのですが、教える立場の自分が書を書けないので指導ができなくて。朱も入れられず困っていたところ先生の亀岡の出張稽古に出会い、藁をも掴む思いで書道教室に通うことにしました。

普段は奥様が亀岡の教室で代稽古されていて、秀巖先生は年に数度いらっしゃられました。
その時に「亀岡では臨書のお稽古が出来ないから」と自宅の方のお稽古に声をかけられて。
「亀岡の教室は愛宕山のハイキングのようなもの。自宅の稽古は富士登山。きちんと装備をしないと遭難しますよ」と言われてすごく緊張したのを覚えています。

他の先生方(兄弟子)もそうですけど、まず礼儀作法を教えて頂いて。箸の持ち方から袱紗の包み方など、何から何まで秀巖先生にしつけて頂いたようなものです。
「書を志す者は、その前に人としてきちんとしていなければならない」
書だけできればよいというものではない。先生の基本的なお考えでした。

書と礼儀作法は表裏一体で、作法を教えることで書に現れる。書だけでなく生き方を指導して頂いたので、先生に偶然お会いできたことは私の人生で本当に良いことでしたよ。


お弟子様による座談会

宮澤秀巖先生が完成させた五次元の書や作風、書に対する姿勢や晩年のお姿などを
直接のお弟子様である萠翠会の方々が語られております。

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