宮澤秀巖

語録集「敬い敬する心」

語録集

故宮澤秀巖先生が遺したお弟子様への師事語録の一部。
美術品、芸術品の定義。書の次元の完成。現代日本において失われた教養への警鐘など、
秀巖先生の書に対する探究・究明の姿勢が窺えます。

「敬い敬する心」

師を敬い敬する者は、学問にしても芸事にしても商で有っても抜きん出た人と成る。又親を尊敬する者も立派な人と成れる。之等の者は道を尊び、之を知らむとする心を持って居るからで有る。師の価値、親の価値、其の格の大きさを知るからで有る。自己の眼力、観る目が無い者は、如何に教育しても、ものにはならない。人間は其の人の丈しか見れぬから仕方が無い。心の置き方一ツ変えれば如何なる者も偉人達人となれる事に丈無き者は気付かない。真剣に人の言に耳を傾け聞こうとせず、解そうとせず、自分は一人前の人間だ、プライドが有る等と思い込んで居る為に偉い人間に成れない。芸事に於いても上達しない。

導く者も受くる者も如何なる者も夜叉と成り、仏と成りをくり返し日々を過ごす。凡夫は夜叉と成る事多し。互いに我捨す可し。行ず可し、行ず可し。失った其の一秒は再び来ない。之は秋葉さんで二十一日間深夜の座禅、千日の水行、千日の素足歩行の行、三千七百名の指導等より、心に映り、感ぜしものを其の儘記すもの。是か非か神の言を待つ。

二十世紀は合理主義主張の世。森羅万象の中に有っては、物理化学の追求のみで幸福、安らぎが生ずるものでは無い。万物の霊長と言い、人権を叫びたがる人間は、先ず「人間とは如何にして有る可きものか?」と人たらむとする求道、究明が必要なので有って、単なる自己中心の合理主義では本当の心の安らぎ等は来るものでは無い。人と成り得たかったら之に気付く可きで有る。

以上の論理も無に立脚したならば、神仏の観に立脚したならば、森羅万象はバランスの上に創生されて居るもので有るから有も無も称える必要は無いかも知れない。
而し霊長たらむと願う者には人道の究明に生涯を費やす可きで有る。自己虫の合理主義者には永遠に幸も安らぎも来ないと言う事に気付かねばならない。

此のように称えると合理の否定に受け止める人も有るかも知れないが只単なる合理性性格資質の否定即ち自己中心主義の合理主義を否定するもので有って、道理倫理を否定するもので無い。誤解せぬよう注意。くり返し記す。以上述べし考えを持たざる者は成功の道鎖さるるものと知る可し。

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